「冬は毎日雪かきをしなければならないので、大変です」
山伏、坂本大三郎。山形県・月山の標高700mあたり、ご近所さんはわずか9軒という小さな集落で暮らし、雪のない時期は毎日のように山へ入る。
きのこや山菜、野糞をしたときに使える葉っぱ、バックパックの材料になる樹皮……。山では、そういう「役に立つもの」を採集するのが好きだ。
「僕、森が好きなんですよ。山頂に行きたいという気持ちはあまりなくて、それよりもうちょっと下の部分、いわゆる森のエリアに何かを採りにに行くのが好きなんです。月山では、2月から3月にかけてイタヤカエデの樹液が採れます。煮詰めるとメイプルシロップになって最高に美味しいんです」
山に暮らし、創作活動を行う。けれど、山に登ってインスピレーションを受けて何かをつくるというやり方はしない。
「山に入ることは、僕にとっての日常です。よく『山での経験が作品にどのような影響を与えたのか?』と質問されます。でも、体験が即、作品に結びつくような感覚は僕にはなくて……。山での普段の生活が、長い時間をかけて創作活動に染み出していくようなものではないかと考えています。取材してくださる方には申し訳ないと感じつつも、人生ってわかりやすいキャッチコピーのようなものではないよなとも思うんです」
裏山でブナの実を取る大三郎さん。昨年は豊作だった
イラスト、器、アウトドアギア、山菜など、アウトプットにもこれといった型はない。今年の夏もダンス・身体表現の作品を出展する予定だ。
瀬戸内国際芸術祭で作った作品。UMA/design farm + MUESUM ×. 坂本大三郎
「山伏と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、おそらく白装束であったり、滝に打たれて山を駈けている姿だと思います。どうしても宗教や信仰のイメージが強くなるので、人によっては何か怪しいことをしているんじゃないかと思うかもしれません。
確かに山伏にはそういった側面があるのですが、でも僕は、どちらかと言うと山伏の行なってきた『表現』とか『創作活動』、それらの背景にある『自然が文化とどのような関わりを持ってきたのか』ということのほうに興味がある。山に入って創作活動を行うこと自体が純粋に楽しいし、その楽しさを追求した結果が、今の自分や日々の暮らしなんだと思います」
アートワークを担当した第一回山形ビエンナーレのポスター。デザインはアカオニ
山形ビエンナーレ2014に出品した作品。来場者の姿を木に彫り込んだ
生まれは千葉県。幼い頃はよく近所の雑木林で遊んだ。夏休みには、家族で丹沢に出かけることもあった。昆虫採集も釣りも好きだったし、幼い頃から自然には親しんでいた。けれど、すぐに山伏の世界を知ったわけではない。出合いは30歳、東京でイラストレーターをしていた頃のことだった。
「友人が通っていた大学のゼミで夏休みに羽黒山の山伏修行に行っていると聞いて、好奇心から自分も参加してみたんです。出羽三山の山伏の修行内容を人に話すことは掟で禁じられているため、今ここで具体的にお話しすることはできないのですが、都会暮らしで身体がなまりきっていた僕にとって山での体験はちょっとキツかったですね。でもそれ以上に、山伏の存在に面白みを感じたんです。この人たち、何者なんだろうって」
さっそく文献や資料を探し集め、山伏について調べ始めた。最初に手にとったのは、柳田國男の『毛坊主考(けぼうずこう)』。山伏の古い姿である「ヒジリ」などの民間宗教者について綴った一冊だ。山伏に関する本は難解なものが多かったが、わからないなりに読み込んでいくと、思いがけない発見があった。
「ヒジリはもともと太陽などの天体の運行を知るという意味で『日知り』と言い、暦を作成して祭り事に関わる人たちのことでした。彼らは共同体の中心的な役割を担って各地で土地の豪族として権力者になる者と、民衆の中に入り込む者とに二極化し、その後、時代の変遷とともに姿形や役割を変えて生き残っていくのですが、その過程で日本の芸能や文化の発生と発展に大きく関わっていることがわかってきたんです」
「例えば、『高野聖(こうやひじり)』と呼ばれた人たちのことを耳にしたことはありませんか? ヒジリは高野山など聖地の維持費を捻出する目的で布教の旅に出て、各地で民衆の関心を集めるために説教の中にエンターテイメント的要素を詰め込んでいきます。その結果、生まれたのが『平家物語』や『小栗判官』といった芸能なのです」
「ヒジリの活躍は本当に多岐にわたります。聖地に日本各地から人を集めてきて宿泊施設である宿坊を営んでいたのもヒジリですし、武力を持ったヒジリたちから派生して、戦国時代には傭兵や忍者的な活動をする者も生まれました。大名になる者もいましたが、伝説では徳川家のルーツには徳阿弥(とくあみ)という念仏聖がいたとされています」
表現や創作活動に携わる者として「モノづくりの始まりはいったいどこからやってくるのだろう」という疑問はずっと心の奥底に感じていた。その答えのヒントが山伏に関わりがあるのかもしれないと思って山形に通っているうちに、気づくと、その地で暮らすようになっていた。
「月山周辺の集落には、山伏の文化はもちろんのこと、狩猟採集文化や、山を転々としながら木を切ってろくろで器をつくる『木地師(きぢし)』の文化など、古い由来を持つ文化が数多く残っています。それらを勉強したいと考えていたときに、山深い肘折の「つたや金兵衛」さんという温泉宿に『そういうことだったら、うちの屋根裏に住んでいいよ』と言っていただいてお世話になりました(笑)」
創作活動の傍ら、各地の山や自然を訪ね歩くのも大切な仕事と考えている。山伏の歴史や自然のなかに生きる人々に残る文化・芸能を研究し、それらを文章や絵に残すことも、また、純粋な楽しさを追求した結果である。
「山伏は、日本の山岳信仰や、そこから影響を受けて生まれた様々な文化にも深く関わっています。彼らはいつ、どこからやってきて、何をもたらしたのか。あるいは、どんな想いで山や自然と関わっていたのか。 各地に残る古い由来を持つ文化を訪ねることでそういったことをひとつひとつ理解していきたい」
2月中旬、かねてより気になっていた「国府台(こうのだい)の辻切り」を求めて、千葉県市川市に足を運んだ。藁で大蛇をつくり、その呪力によって悪霊や病気を追い払うための儀式として古くから伝わる習わしで、各村の出入口にあたる四隅の「辻」を呪力によって遮断することから、この名がついたと云われている。
「藁の大蛇づくりは毎年1月17日、国府台天満宮神社境内で行なわれています。住民が持ち寄った藁で2mほどの大蛇を4体つくって、町の東西南北『四隅』にある木に結び付けることで、その年に悪いことが起こらないようにと祈願するんですね。今日はその藁蛇(わらへび)を実際に見て回ります」
藁蛇に着目したのは、日本の山岳信仰の成り立ちと密に関わっている可能性があるからだ。
「日本列島に人が住み始めた石器時代から縄文時代にかけては、今の僕たちが考えるような山岳信仰はありませんでした。中国や朝鮮半島といった大陸から伝播してきたものではないかという説がありますが、僕はその痕跡のひとつが藁蛇なんじゃないかと思っています」
藁蛇を木に巻きつける風習は各地にある。なかでも注目したいのが、九州南部の『十五夜綱引き』。同じ九州南部でも地域によって微妙に内容が異なりますが、山から素材を採ってきて綱を作り、それを子供たちが担いで集落をまわり、広場で綱引きをして、綱が切れると相撲をとり、最後に綱を海に流したり木に巻きつけたりするという風習だ。
「じつはこれが、韓国で行なわれている新年の綱引き行事とそっくりなのです。韓国では新年に村人たちが藁で綱をこしらえ、綱を担いで集落をまわり、綱引きを行ない、その後、堂山と呼ばれる集落を代表する老木に綱を巻きつけます。よく似ていると思いませんか?
おそらくこうした綱引き行事が朝鮮半島から九州に渡来してきて、九州南部では十五夜綱引きとなり、また違う地域では綱引きの要素が抜け落ちて綱を木に巻きつける風習となり、そのひとつが国府台の辻切りになったのだと思います 」
さらに興味深いのは、各地に伝わる「山」や「森」を意味する言葉である。
「韓国では、人が亡くなると集落の近くの小高い山に葬り、そうした山のことを同国の古い言葉で『モエ』とか『ムエ』と言います。一方、日本では聖地のことを『鎮守の杜(ちんじゅのもり)』と言い、東北では小高い山を指して『森山(もりやま)』と表現することを考えると、『モリ』という言葉がどうやら『山』を意味する古い言葉であったようだと想像できるわけです」
「また、庄内の『三森山』という場所は、日常的には訪れてはならない恐ろしい禁足地であると考えられていて、お盆の時期には祖霊が帰ってくる山として『モリ供養』という儀礼が行なわれています。鹿児島にある『モイドン』という聖地も同様に恐ろしい場所であると考えられていますが、これは『森殿(もりどの)』を鹿児島弁で発音したものですし、八重山諸島には聖地・御嶽を擁する『ナナムイ』という場所があり、『ムイ』は『森』を指します。このように地方によって言い方が微妙に異なりますが、『モリ』という言葉の根底には、共通するところがあるのです」
CALLING MOUNTAIN 2019のトークショーでは、九州の山文化を起点として、現在の自分たちの生活に結びつく話をしたいと思っている。
「その類の話には興味がないと思う人にも面白いと感じてもらえるように努力しますが、今の山文化や登山道についての知識が深まれば、歩いている景色が違って見えるようになるだろうし、登山そのものがもっと面白くなるのではないでしょうか」
written by chu